ロシアのピアノ芸術、19世紀から20世紀へ

世紀から ロシアのピアノ芸術

Add: ehyxanun97 - Date: 2020-11-23 09:24:30 - Views: 1393 - Clicks: 8008

ロシア音楽において、ピアノという楽器は大変重要な位置を占めています。19世紀初めから今日までに、多くの優れたピアニストと、多くの優れたピアノ作品が生み出されました。 今回は、ロシア産のピアノ作品の傑作を紹介していきたいと思います。 バラキエ. 19世紀に華ひらくロシア音楽について、ピアノ音楽を中心に。 第3回:1月24日(金)午後6時30分~8時 「ピアノの歴史と日本」 講師:井上さつき(愛知県立芸術大学教授) 大正時代の舶来ピアノブームとその後の展開について。. ピアノの本質から外れた楽器 19世紀におけるピアノは、その使用目的、および構造などの諸点において、現在の楽器とはいささか異なった性質を持っていた。19世紀のピアノはハウスホールドオーケストラとして栄えていったのである。. 19世紀の、それこそ馬車が一番早い乗り物であり、手紙が唯一のコミュニケイションの手段だった時代から、20世紀を迎え、機関車や自動車が世界中を走り回り、電信や電話そしてラジオがコミュニケイションの手段となり、音楽もまたレコード録音やラジオ. イギリスはなぜ、19~20世紀に世界の覇権を握ることができたのか。イギリスが18世紀後半、世界で最初に産業革命に成功し、世界の工場として.

18世紀初め、ピョートル1世により創設。敷地内にはラーザレフ墓地とチーフヴィン墓地があり、古今のロシア各界の偉人達が眠っている。 また、18世紀から19世紀にかけての著名な彫刻家による新古典主義彫刻の墓碑の数々でも知られている。. 3, 6, 17, 18, 20; part 4 - nos. 所属 (現在):大阪大学,言語文化研究科(言語社会専攻、日本語・日本文化専攻),助教, 研究分野:ヨーロッパ文学(英文学を除く),ヨーロッパ文学,芸術学・芸術史・芸術一般,ヨーロッパ語系文学,小区分0:文学一般関連, キーワード:ロシア文学,ロシア音楽,象徴主義,アヴァンギャルド,ロシア芸術. 19世紀のサロンは、主に上流階級の歌姫によって運営されていました。贅を凝らした客間、衣擦れの音、香水とおしろいの匂い。優雅で洗練された雰囲気をもっとも好んだのが、サロンの作曲家と呼ばれたフォーレでした。 ポーリーヌ・ヴィアルドー(1821~1910)は、ショパンにかわいがられたスペインの歌姫で、1840年から半世紀以上にわたって、ドゥエ街48番地でサロンを開いていました。ここには作曲家ばかりではなく文学者も出入りし、木曜日にパントマイムと詩の朗読の会、日曜日には音楽夜会が催されました。1872年、サン・サーンスの紹介で参加したフォーレは、気品あふれる老女となったジョルジュ・サンドの前で、サン・サーンスがロシアの文豪ツルゲーネフとパントマイムを演じるシーンを目撃しています。 フォーレの《バイオリン・ソナタ第1番》はポーリーヌの息子ポールに捧げられ、ポールのバイオリンとフォーレのピアノにより、ヴィアルドー家の別荘で初演されました。 のちにドビュッシーの二度めの妻となるエンマ・バルダック(1862~1934)も、当初はフォーレの庇護者でした。ボルドーのモイーズ家に生まれ、富裕な銀行家と結婚し、社交界の歌姫として活躍していた彼女は、1892~96年、ブージヴァルの田園風の家の離れをフォーレに提供し、フォーレはそこで歌曲集《優しき歌》を書きあげました。作品を献呈されたバルダック夫人は、公開に先立って内輪の会で初演しています。 フォーレはまた、1894~97年、愛称をドリーというバルダック夫人の娘の誕生日に捧げるため、ピアノ連弾組曲《ドリー》を作曲しました。この「ドリー」が後にドビュッシーの義理の娘になろうとは、当時は誰も考えなかったに違いありません。 彫刻家の妻サン・マルソー夫人(1850~1930)は、1870年から亡くなる前まで、マルゼルブ街100番地で最先端の音楽サロンを開いていました。やはりフォーレを支援していた夫人は、1883年ごろ、まだバイロイトに行ったことがないフォーレのために「謎々びっくりくじ」をつくって資金を集めています。 いつも作曲界の動向に気を配っていた夫人は、1894年2月、新進作曲家のドビュッシーを招き、彼の伴奏でカンタータ《選ばれた乙女》を歌ったり、作曲中の《牧神の午後への前奏曲》をピアノで弾いてもらっています。ドビュッシーはそのころ、《選ば. ハイ・ライフのサロンが香水に包まれていたとすれば、世紀末の文芸サロンには煙草と酒の匂いが充満していました。ドビュッシーは、こちらのほうが好みだったようです。 1881年末にロシュシュアール通り84番地に開店した文学キャバレ『黒猫』(85~97年はラヴァル街)には、「マッチを擦れば燃え上がりそうなほど」アルコールがしみこんだデカダン詩人たちが出入りし、バー・カウンターの横のピアノで弾き語りしたり、おどろおどろしい身振りで詩を詠んだりしていました。 最初のピアノ教師の息子にあたるシャンソン作曲家シャルル・ド・シヴリーの手びきで学生時代から『黒猫』に出入りしていたドビュッシーは、常連の詩人シャルル・クロやヴァンサン・イスパの詩で歌曲を書きましたし、『黒猫』のイラストレーター、アドルフ・ヴィレットはドビュッシーの歌曲《マンドリン》をしゃれた装丁で飾りました。 いっぽう、パリ音楽院を中退して1888年から『黒猫』でピアノを弾いていたサティーは、91年に経営者のサリとケンカして別の文学酒場『オーベルジュ・デュ・クルー』に移り、そこでドビュッシーと親交を結んでいます。 1889年にショセ・ダンタン11番地に開店した『独立芸術書房』が賑わうのは、5時から7時までの「アペリチフ」タイムでした。この書店は象徴派とオカルティストのたまり場で、長老格の詩人に加えてレニエ、ジッド、ピエール・ルイス、クローデルなど若い文学者、画家のルドンやロートレック、占星術師のエリー・スターも顔を出し、ドビュッシーも日課のようにやってきました。サティーをこの店に連れてきたのもドビュッシーです。 近年、『ダ・ヴィンチ・コード』でドビュッシーがさる秘密結社の総長にリストアップされていますが、根も葉もない話ではなく、オカルト関係の出席者によれば、ドビュッシーは「ヘルメス学に深く魅了され、その方面の書物もよく読んでいた」といいます。 『独立芸術書房』は、若い作家の本を次々と刊行したことでも知られています。ドビュッシー《夜想曲》のもとになったレニエ『古いロマネスクな詩』も、ドビュッシーの《選ばれた乙女》や《ボードレールの五つの詩》の楽譜もここから出版されています。 象徴派の詩人ステファヌ・マラルメ(1842~98)が、1874年夏から毎週火曜日にローマ街89番地で開いていた『火曜会』は、わずか10人程度で満員に. チャイコフスキー 1840~1893. 本研究は19世紀末から20世紀初頭のロシアの音楽と文学のインターフェースに光を当てるものである。まず、これまであまり研究対象とされてこなかった作曲家たちの基本的な情報を整理し、楽譜や書籍を発表したほか、メトネルに関して、象徴主義との関係、その文化史的意味について研究し. 19世紀からソ連時代をへて現代へと、どのような教えや技法が受け継がれてきたか。 古来、ロシアの教会では楽器の演奏は許されず、人間の声による典礼だけが行われ、また民衆の生活には歌があった。.

20世紀は(残念ながら)「現代(無調)音楽」の時代である。 バッハ〜モーツァルト〜ベートーヴェン〜シューベルト〜ショパン〜ワグナー〜マーラー〜ドビュッシーなどなど数百年に渡って脈々と伝えられてきた「クラシック音楽」には、その時代時代に「新しいがゆえに難解で理解しにくい. 19世紀前半、 グリンカ (1804-1857) がロシアのクラシック音楽界に本格的な世界を切り拓きました。 西ヨーロッパで一定成功を収めた音楽家たちと、交流の深かった、貴族出身のグリンカ。. tower records onlineは、cd、dvd、ブルーレイ、本、雑誌、各種グッズ、チケットなどが購入できる通販サイトです。ポイントは店舗・ネット共通!cd. 14; part 3 - nos.

そして、ロシアの絵本を語る上で欠かせないのが、画家 イワン・ビリービン (1876~1942)です。さて、ここからが今日の本題です。 イワン・ビリービンは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した画家・グラフィックデザイナーです。. 第1次大戦後しばらくは、19世紀末と重なるような狂騒の時代でした。『独立芸術書房』にあたる書店も、サロンの役割を果たしました。シルビア・ビーチがオデオン界隈に開いた『シェイクスピア書店』には新進の詩人が集って自作を朗読し、アドリエンヌ・モニエの『オ・ザミ・デ・リーヴル』は、1919年にサティー《ソクラテス》を再演しています。観客はジッド、クローデル、ピカソ、ブラック、プーランク、ストラヴィンスキーといった豪華な顔ぶれでした。 いっぽう、「20世紀の黒猫」の異名をとるのは、1922年にボワシー・ダングレ街に開店したナイトクラブ『屋根の上の牡牛』です。店名は、コクトーのシナリオ・演出、ミヨーの音楽、デュフィの舞台装置で上演された同名の道化芝居にちなんでいます。 『屋根の上の牡牛』には、プーランク、ミヨーなど六人組や、キュビスト、ダダイストのグループ、ジョイス、ヘミングウェイなど“ロストジェネレーション”の作家、ディアギレフ、ストラヴィンスキーなどロシア・バレエ団関係者まで、尖鋭的な知識人が勢ぞろいし、ジャズの演奏が狂乱の雰囲気を盛り上げ、2年間コクトーの活動拠点となりました。 しかし、24年にブルトンがシュールレアリスム宣言をすると、これに共鳴したヴァランティーヌ・ユゴーはコクトーのもとを離れてしまいます。ブルトンが音楽を好まなかったこともあり、文芸運動と音楽は次第に遊離していきました。 1936年、オリヴィエ・メシアン(1908~92)は、「お手軽主義、貧血ぎみの新古典主義、そして極端な理知主義」に汚染されたフランス音楽を再生させるため、ジョリベらと「若きフランス」グループを結成しています。1938~39年、4人の支援者のサロンでコンサートが開かれ、メシアンも自作の声楽曲《数の死》のピアノ・パートを演奏しましたが、第二次世界大戦が勃発したためグループは散り散りになってしまいました。 * 世紀末からベル・エポックを華やかに彩っていたサロンの女主人たちも1950年までにはほぼ亡くなり、文学、芸術、ファッション、音楽、社交の中心は『ドゥ・マゴ』や『フロール』など、モンパルナスやサン・ジェルマン・デ・プレ界隈のカフェに移っていくのでした。. ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい 。なお、1917年の帝政終焉後に成立したソビエト政権はロシア暦を廃止してグレゴリオ暦に移行し、1918年1月31日の翌日を2月14日とし. 「20世紀~」の記事一覧です。 ダダイズム 1916年、第一次大戦の混乱に嫌気がさして、中立国であるスイスのチューリヒに集まった芸術家たちによって、従来の芸術を根底から否定する過激なダダイズム運動が起こりました。.

19世紀後半から20世紀へ フランス革命 18世紀末のフランス革命によって生れた自由と平等の精神は、各国の市民階級の中に深く浸透し、ウィーン体制に対する彼らの抵抗には根強いものがありました。. 19世紀末~20世紀初頭はロシアにおいて大衆文学が急速に発展した時期であり,そこに見られる「オカルト」への関心,および文学への反映は,リアリズムからシンボリズムへといった当時の主流文学の流れとある程度連動しながらも異なった様相を呈し,当時の文学状況の全体像を把握する上で興味. See ロシアのピアノ芸術、19世紀から20世紀へ full list on ondine-i. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ロシア音楽の用語解説 - 10世紀末頃からギリシア正教の教会音楽と結びついて,ロシア人の音楽好きの国民性がはぐくまれ,独自の民謡が多数生まれた。芸術音楽は,18世紀のピョートル1世(大帝)時代にヨーロッパから伝わり,最初はヨーロッパ音楽へ. 19世紀ヨーロッパ文化(芸術) (市民革命~自由主義・国民主義~帝国主義の時代) 【概要】 •時代が大きく移り変っていく時代 •文学、美術、音楽の面でも移り変わりが見られ 14世紀ヨーロッパで流行した黒死病(ペスト)や1918年から19 年にかけて世界. 4 この民謡集からの11曲の譜例がフィンデイゼンの著作に付録として収録されている(Findeizen:354-361):part2-no.

世紀末からベル・エポックにかけてのサロンのポイントは、香水でも煙草でもなく、ズバリ「お金」と「人脈」でした。世紀転換期のメセナとなる女性たちは、結婚で得た豊かな財力や人脈を新時代の芸術に投資し、ラヴェルやサティーは大いに恩恵にあずかりました。 プルースト『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人のモデルの一人グレフュール伯爵夫人(1860~1952)は、1878年に財産家の夫と結婚して以来、文芸の庇護者として活躍した女性です。アストルグ街の広大な邸宅で開かれていたサロンは、シャブリエからストラヴィンスキーまで無名の前衛芸術家のメセナとして知られています。 夫人は、1890年代初め、国民音楽協会の改革に奔走するなど、音楽界の陰の立役者でもありました。リヒャルト・シュトラウス《サロメ》がドレスデンで初演されたことを知った夫人は、早速サロンでピアノによる私的上演を実現させ、シャトレ座でのパリ初演にこぎつけました。マーラー《交響曲第2番「復活」》のパリ初演にも尽力した夫人は、1910年4月、初演のために来仏したマーラーを招き、ドビュッシー夫妻をまじえて会食しています。もっとも、初演の際ドビュッシーは、第2楽章の途中で席を立ってしまうのですが。 ポリニャック大公妃(1865~1940)は、シンガー・ミシンの創立者の娘に生まれ、七月革命で退陣したシャルル十世の大臣の息子と結婚しました。莫大な資産に加えて貴族の身分を手に入れた大公妃は、1893年からコルタンベール街でサロンを開き、世紀末からベル・エポックにかけての音楽世界に君臨することになります。 前衛芸術に関心を寄せていた大公妃のサロンは、シャブリエからストラヴィンスキーまで、発表の機会に恵まれない「現代音楽」の初演の場として貴重でした。大公妃は1918年、サティーに交響的ドラマ《ソクラテス》の作曲を依頼しています。 ミシア・セール(1872~1950)は、雑誌『白評論』の主宰者ナタンソン、『ル・マタン』紙の支配人エドヴァールと、夫を替えるたびに文壇に人脈を増やしていきました。ディアギレフ率いるロシア・バレエ団に巨額の出資をしていたミシアはまた、ラヴェルの庇護者としても知られ、《ラ・ヴァルス》を献呈されています。 1905年、ラヴェルが四度目のローマ大賞に落選したとき、当時の夫エドヴァールの立場を利用して新聞にスキャンダ. ロシアの教会音楽の起源は10世紀末にキエフ大公国がギリシャ正教を国教として受容したことに始まる。 ロシアの聖歌は、修道院と一般の教区教会の奉神礼(典礼)様式をはじめとしたビザンティン聖歌の様式をほぼそのまま取り入れ、ギリシア語の歌詞を古代教会スラヴ語に訳して歌い継いだ。. ロシア民謡集の研究(1):18世紀末から19世紀にかけてロシアで刊行された民謡集について 129. 映像授業Try IT【世界史】 19世紀の露・米1 露の南下政策 ロシアのピアノ芸術、19世紀から20世紀へ (15分) - YouTube; 映像授業Try IT【世界史】 19世紀の露・米2 バルカン半島進出 (22分) - YouTube. 19世紀ロシアと東方問題年表 ©世界の歴史まっぷ 出典・参考資料. 20世紀初頭の芸術運動 20世紀のはじめ、近代社会が到来するとともに、今までの価値観を覆す新しい芸術運動が各国、各分野で起こった。 表現スタイルはそれぞれあったが、根底にあるのは"古い伝統を乗り越えて新しいものを生み出そう"という考え。 <芸術運動を通して社会改革をめざす.

【年表】ロシア史(9世紀~1917年)最終更新:掲載:作成:三成美保4~6世紀 スラブ人の移動リューリク朝(9~16世紀末)リューリク朝=リューリクを高祖とする公家で、9世紀から16世紀末にかけてキエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国、モスクワ大公国などの東欧. ドイツロマン派の終わりはどこなのか。ワーグナーのパルジファルが1882年、ブラームスの最後の交響曲が1885年である。ワーグナーは1883年に死に、ブラームスは頑張ったが、1897年に死んでいる。シェーンベルクが「浄夜」を書くのが1899年、まさに20世紀の前夜である。 ロシアでは. ★ロシア国民楽派5人組 19世紀中ごろから時刻の音楽をつくろうとする動きがおこり、ポロディン・キュイ・バラキレフ・ムソルグスキー・ルムスキー=コルサコフの5人により、ロシアの国民楽派を確立しました。 作曲家.

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歌で逢いましょう - デュード

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